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ヨス・フェルスタッペン(Johannes Franciscus "Jos" Verstappen, 1972年3月4日 - )は、オランダ出身のレーシングドライバーで、元F1ドライバー。姓はバースタッペンとも表記された。 息子のマックス・フェルスタッペンもレーシングドライバーである。 == 経歴 == 1993年に参戦したドイツF3選手権では1年目でチャンピオンとなったことでF1チームから注目を浴び、フットワークでのテストではレギュラードライバーよりも速いタイムを記録。 F3世界一決定戦とも言えるマカオGPには参加せずにスポンサーの意向でマクラーレンでもテストを行うなど、速さだけではなく資金面でも魅力的で各チームで争奪戦となった。 争奪戦の結果、ベネトンのマネージング・ディレクターを務めるフラビオ・ブリアトーレとドライバーマネージメント契約を結ぶことで、1994年にベネトンとテストドライバー契約を交わす。しかし、シーズン前のテスト中にレギュラードライバーのJ.J.レートが負傷したために開幕戦ブラジルGPで急遽デビュー。その後もミハエル・シューマッハの出場停止中の代役なども含め、この年10レースに出走し、表彰台に2度立った(いずれも3位)。しかし、シーズンを通じてコンスタントな成績を収めることはできず、ドイツGPではこの年から導入された給油中に出火し、炎に包まれることもあった。 翌1995年にはレギュラードライバーの地位を求めてシムテックに移籍。この契約では資金だけではなく、前年までベネトンが使用していたエンジンとギアボックス(電装系も含め)も持ち込んだ。しかし、この頃のシムテックは前年のローランド・ラッツェンバーガー、アンドレア・モンテルミーニの相次ぐクラッシュなどで著しい財政難にあり、たった5戦で撤退に追い込まれてしまったため、フェルスタッペンもシートを失った。 1996年はアロウズへ移籍し、チームメイトのリカルド・ロセットを殆ど上回っていたが、マシンの信頼性不足もあり、入賞はアルゼンチンGPの一回だけだった。 1997年ティレル移籍、しかしV8エンジンの非力さも手伝って、ノーポイントに終わる。 1998年はシートを得られなかったがスチュワートからスポット参戦している。しかし目立った成績を残すことなく、1998年オフにはシートを失った。 1999年にはシャシーを含めた全てを自社開発する「オールホンダ」でのF1復帰を発表したホンダのテストドライバーに迎えられたが、最終的にホンダがB・A・Rへのエンジン供給の方を選択し、「オールホンダ」体制を諦めたことから再びシートを失った。 再び注目を浴びたのが、1年の休養をはさんだ2000年。アロウズのエースドライバーに迎えられたのだが、この頃のエグバル・ハミディがデザインを手がけたアロウズのシャシーは、ダウンフォース不足と引き換えにドラッグ(空気抵抗)も極めて少なく、トップチームをも圧倒する驚異的なストレートスピードを見せる。この頃から日本では『直線番長』(のちに、単に『番長』)、ヨーロッパでは"Jos the Boss"のニックネームをつけられる。但し、あくまでストレートスピードの速さだけが取り得のマシンであったため、リザルトは芳しいものでは無かった。 2003年はミナルディから参戦。フランスGPの予選1回目では、暫定ポールポジションを獲得した。 2004年にジョーダンと契約寸前で破談。 2005年から開催している2005-2006A1グランプリへオランダチームとして参戦。南アフリカGPではオランダチーム初となる勝利を挙げ、自身にとって実に12年ぶりの表彰台に立った。(1位1回、2位1回・チーム総合7位) 2006年も2006-2007A1グランプリに参戦予定であったが、開幕直前に金銭的な問題が絡み破談している。 2007年はスパイカーF1からの復帰が報じられたが、契約には至らなかった。 2008年のル・マン24時間レースにポルシェRSスパイダーで参加、LMP2クラス優勝(総合10位)を飾った。 2009年のル・マン24時間レースにアストンマーティン・レーシングのドライバーとして参加が決定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヨス・フェルスタッペン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jos Verstappen 」があります。 スポンサード リンク
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